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2009-01-06

ツナサラダと、ウィスキーの麦茶割り。


ただのツナサラダ。
ドレッシングは、ピエトロ。
右側の茶色い液体は、ウィスキーの麦茶割り。
以上。
こんなもんのっけて、どうすんだよ、ってな話なのだが、まあ報告、ということで。

風邪を引いたらしく、今夜は風呂はやめにした。
この2、3日、夜寝るとき脚が痛くて、その「痛い」というのが、どこが痛いというわけでもなく、筋肉痛とは違うし、幼稚園のころよく、同じように脚が痛くなって、「成長痛だ」などと言われていたのだが、今さら成長痛なわけもないし、ああ、おれもとうとう酒の飲みすぎで、リウマチにでもなったか、と思っていたわけだが、さっき喉が風邪特有のいがらっぽい感じになっていることに気づき、ああこれは風邪なんだと、初めて気付いたわけだ。
いやすいません、この話、オチはないんです。

飯島愛が死んだ。
初めのニュース速報が、「自殺か」となっていたので、それから目が離せなくなった。
発見された時点ですでに、死後1週間たっていたという、孤独死。
行政解剖では死因は分からず、病理解剖へ回されたというが、結果は未だ公表されていない。
すでに家族で葬儀がとりおこなわれた。
飯島愛がとくに好きだったというわけではないので、その死がなぜこんなに気になるのか、それが不思議だった。

巷の噂によると、飯島愛は芸能界を引退するに当たっても、何かを隠していて、それを隠し通すために引退したのでは、などということが、まことしやかに言われている。
そんな噂までを、こと細かくネットで調べたりまでしているわけだ、僕は。
台湾の占い師が、テレビで飯島愛に、
「あなたは引退してはいけない、あなたはそんな弱い人ではない、問題にきちんと向かい合って、それを乗り越えようとしなければいけない」
というようなことを言っていたらしい、ということもあって、つまりその死は、その問題を乗り越えられなかったために、必然的に迎えた結末だったのか、そういう悲劇性が、人の興味をこれほど惹くのだろうか、と考えてみたりもした。

しかし、違うのである。
身近な人の死というものは、それがどんなものであれ、人間が深く、思いを巡らせざるを得ないものなのである、たぶん。
飯島愛が僕にとって身近かといえば、もちろん全くの赤の他人なわけだが、僕は、幸い、というべきだろう、両親は健在だし、長く付き合った友人が亡くなったということも、未だ経験していない。
そういう人たちが亡くなるという経験は、これから数多く、していくものなのだろう。
飯島愛は赤の他人だが、僕が20代の頃からテレビで見かけ、それ以来20年ほどにわたって、見たかったわけではなかったが、見続けてきてしまった存在なのだ。
知らず知らずのうちに、自分の中に身近なものとして、刷り込まれてしまったのだと思う。

僕はだから、身近な人の死に際した人間の気持ちというものを、ただ普通に経験しているにすぎない、ということなのである。