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2010-08-20

郡司ペギオ-幸夫 「生命壱号」

この本は僕は、ほんとにすごい本、まあ僕は素人だから、研究内容についての評価は、きちんとはできないわけだが、今までに僕が触れてきた、生命論に関する、少ない知識をもとに推し計るに、真に革新的な内容であるといっても、まったく過言じゃないのではないかと思うのだがな。

郡司さんというのは、50歳くらいの、神戸大学の理論生物学者で、ちなみにこの変わった名前、ハーフかと思う人もいるかもしれないから、説明しておくと、「ペギオ」というのは、もともと自分の子供に付けようと思っていた名前だったのを、奥さんに反対されたため、自分に付けてしまったということなのだそうだが、言ってることは20年以上前、郡司さんが研究をはじめた初期のころから、何も変わっていないのだ。

「生きもの」、または「生きているということ」を理解しようとするとき、たとえば人間だったら、人間のからだは無数の細胞でできていて、さらにそのひとつひとつの細胞は、無数の、タンパク質やら、DNAやら、脂肪やら、といった、分子からできている。
だからひとつの考え方としては、人間というものは、分子からできた、機械のようなものであると、考えることができるわけだ。
実際いまの科学というものは、その分子のひとつひとつを、驚くような技術力によって、細かく解析し、「ヒトゲノムプロジェクト」なんてのが、数年前もあったりしたように、人間のDNA分子の配列を、すべて読み取ってみたりして、それによって、生きているとはどういうことかを明らかにしようとしている。

しかし生きものというものは、いわゆる僕らが知っている機械と、同じものなのか。
僕らが知っている機械というものは、誰かが何かの目的のために設計し、工場で部品をつくり、組み立てたものだ。
またその働きは、設計の段階であらかじめ予定され、予定どおり働くように組み立てられたり、プログラミンされたりしていなければならないし、予定外のことをさせるときには、誰かが仕組みを変更したり、操縦したりしないといけない。

ところが生きものというものは全然ちがって、まずそれは作られるものじゃなく、生まれるものだ。
誰かが部品をあつめ、組み立てるのではなく、ニワトリの卵は、ひとつの受精卵だったものが、自分で勝手にひよこになって、殻を突き破って出てくるようになる。
また生きものが、何かの目的、何かの機能を果たすということのために生まれてきたとも、どうも考えられない。
人間は会社に入ったら、会社の目的を達成するために、自分の役割を果たさなければいけないわけだが、べつにそれが嫌だったら、会社をやめたってかまわない。
さらに生きものは、それぞれがそれぞれなりの意志をもち、自分の生まれた場所で、なんとか生きていくように、それぞれの工夫を重ねていくように見える。
今の自分のからだでは、うまくいかないとなったら、それを大きく変化させて、進化して、新たなからだを生み出しすらする。

分子の部品でできた生きものが、そのように全体として、ひとつのからだ、ひとつの自分、ひとつの意志、というものをもっている。
今までの科学の枠組みの中には、そのような「全体」を説明できるようなことばはなく、だから科学者は、そのような不可思議な全体というものについて、あまり考えないようにして、とにかく部品のふるまいを詳しく調べていけば、そのうちそういう全体も、説明できるようになるだろうと希望するというのが、これまでの主流のやり方だった。
そしてこれまで、そのような「全体」については、哲学というもののなかで、あれこれ考えられてきたわけだ。

しかし郡司さんは、科学者であるにもかかわらず、そうではなく、生きものは分子でできた機械であると同時に、全体としてひとつのからだを実現しているものであるということは、誰でもが知っている、経験的な事実であり、生きものがそのような、部分と全体の両面からできているということを素直に受けとめ、その両面がどのようにしたら成り立つものであるかということを、科学という枠組みの中で、新たに見つけていかなければいけない、ということを言う、科学者としては少数派の一人なのだ。

そういう少数派の科学者たちは、この30年くらい、いろいろな模索をしてきていて、進もうとする方向も様々で、「複雑系」というのは、その中でもひとつの有力な考え方をさす呼び名なのだが、「オートポイエーシス」とか、「アフォーダンス」とか、ほかにもたくさんの、いろいろな考え方をもって、なんとかその、これまでの科学では説明できない、不可思議な全体というものを、説明できる枠組みをつくり出したいと努力している。

ところで郡司さんというのは、そういう少数派の人たちの中でも、さらに独自の道を歩んでいる人のように見える。
科学者とて人間であり、新しい考え方を打ち出すためには、学派をつくり、そこであれこれ研鑽を重ね、世の中にたいしてアピールしていくものだと思うが、郡司さんはどのような学派にも属していない。
一時「内部観測」という名前でくくられたこともあるのだが、今は郡司さん自身は、そのことばはあまり使わないみたいだ。
それはたぶんべつに、郡司さんが学派がきらいだからとかいうことではなく、郡司さんの進もうとする方向が、あまりにも独特なものなので、ほかにそれと方向を同じくする人が、ただいなかったのだと、そういうことなのじゃないかと思う。

僕はこれまで、郡司さんの書かれた本を、いくつか読んだことがあるのだが、とてつもなくおもしろそうな感じはするのだが、とにかくむずかしい、という印象だった。
そのむずかしさというのは、ひとつには、郡司さんの理論には、科学にはこれまでほとんど登場することがなかった、哲学的な考え方とか、論理学とか集合論のような道具立てとか、そういうものが大量に登場するのだが、そういうものはこちらも、あまりなじみがないものだから、理解するのがむずかしい、ということがあった。

しかしまあ、新しい考え方というものは、何でもなじみがないに決まっているのだから、それ自体はどうってことはないともいえるのだが、それより大きかったのは、それだけむずかしい理論を展開して、それではその理論が、生きものについての実際の現象、実験事実なり、観測結果なりを説明するのかといえば、そうではなかったということだ。
理論が説明されて、それでおしまい。
それでは、その理論が、たんに郡司さん個人の考え方なのか、それとも生きものについて、正しい側面を言い当てたものなのか、判断がつかない。
それが、これまでの郡司さんの理論のむずかしさというものの、根本にあったと思う。

でもこのことは、べつに郡司さんに限ったことではなく、不可思議な全体を理解しようとする、少数派の科学者たちすべてに、大なり小なり言えたことなのだ。
学派をつくって大々的にやっている人たちについても、「実験」と称するものをいろいろ行ったりはしているのだが、それは理論を直接的に証明するとかいうものではなく、ある、これまでにはあまり言われていなかった方向性を、漠然と示唆する、くらいのことであったように思う。
それは、この少数派の人たちが、いまだ試行錯誤の最中であり、発展途上であるということを意味していたと思うのだ。

ところが郡司さん、今回この「生命壱号」で、そこを完全に突破したのだと思うのだよな。

郡司さんの根本の考え方が、これまでの科学にはあまりなじみがない、哲学的な、ちょっと難解なものであるというのは、これまでと変わっていないのだが、郡司さん、この本の表題に、「おそろしく単純な生命モデル」と銘打っているように、自分の考えを、まず実に単純な、コンピュータのシミュレーションに展開したのだ。
これはほとんどオセロゲームみたいなもので、黒と白の石があって、20個ほどの黒の石が、真ん中に四角く、かたまって置かれていて、そのまわりを白い石がうめている、というところから始まって、その後のルールは、まわりの白い石は、ランダムな順番で、黒い石と入れかわって、黒い石のかたまりの中に入り込んでいくこと、これは生きものにとっての、餌みたいなものなのだ、そして、白い石は、一度入れかわった黒い石をおぼえていて、一度入れかわった黒石とは、二度は入れかわらないという、基本ルールはそれだけ。
こんな簡単なことなのに、それをコンピュータで何千回も計算させていくと、はじめ四角くかたまって置かれていた黒い石は形を変え、かといってちぎれてしまうこともなく、あくまでひとつの全体をたもって、まるでいかにもアメーバかなにかのような、不思議なふるまいをするのだ。

さらに、それだけではない。
この黒石の動き方について、適当な条件を設定すると、これが粘菌という、アメーバの一種のふるまいと、そっくりな動き方をするようになる。
ちょっと前に新聞に、粘菌が迷路を解けることを明らかにした日本人の研究者が、イグノーベル賞をとったということが出ていたが、この黒石、これを郡司さんは、「生命壱号」と名付けたのだが、この生命壱号は、同じように迷路を解けることを明らかにした。
また生命壱号の性質を、統計的に解析すると、それが粘菌の統計的な性質と、ばっちりと一致したり、これまではよくわかっていなかった、フラクタルなどに見られる統計的な性質が、生命壱号の性質から導きだされたりするのだ。
これはほんとに鮮やかで、不可思議な全体を見つけようとする少数派の人たちの中で、理論をこれだけ実験と一致させた人は、今までいなかったんじゃないか。
細かいことは、専門的には色々あるのかもしれないが、とにかくものすごいインパクトがあることは、まちがいないのだ。

この本の後半は、それからさらに展開して、「束論」という数学を使って、ある心理学的な実験を説明したり、その束論を、「オートマトン」というコンピュータ上のアルゴリズムに適用して、より生きもののふるまいに近いオートマトンをつくり出したり、内容としてはかなりむずかしくはなるのだが、つねに実験結果や、はっきりと目に見える、コンピュータシミュレーションの結果というものを目標として、話が進んでいくので、明快さは失われない。

郡司さん、ここ30年ほどやってきた、自分の研究が、今すべて、花開いている、というところなのだろうな。
まだまだこれから、先に進んでいくのだと思うし、学会や、世の中にたいしても、影響が波及していくのだろうと思う。

この本、理系の本をまったく読んだことがない人にとっては、ちょっとむずしいかもしれないが、そうでなければ、読む価値がある。
それはもしかしたら、歴史をリアルタイムで体験すると、そういう意義すら、あるのじゃないかと思うくらいだ。

★★★★★
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