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2010-10-16

週刊文春

大学の頃、3歳年上の女の友だちが、今日は週刊文春で三浦和義のことが載ってるから買わなくちゃ、と言うのを聞いて、そのワクワクとした調子に、週刊文春というのはそんなにすごいものなのかと、僕も買ってみたというのが、僕が週刊文春を読み始めたきっかけだ。それから今に至るまで30年近く、たまに中断したことはありながらも、週刊文春を読み続けていることになる。読み続けているひとつの理由として、新聞は当然読むとしても、その新聞を批判できるような媒体も、同時にチェックしておきたい、ということがあるのだが、そうでなくても、昔の週刊文春はほんとに面白かった。

僕が中でも最も楽しみにしていたのは、ナンシー関のテレビ評論で、これが連載されているときには、週刊文春の発売日を毎週楽しみに、心待ちにし、朝一番で買うということにしていた。その頃、伊集院静のエッセイも同時に連載していて、毎週自分がハチャメチャに飲んで失敗して、あとで自己嫌悪するという話を懲りずに書いていて、これもまた面白かった。ほかにも泉麻人のエッセイとか、米長邦雄の人生相談とか、またもちろんエッセイばかりではなく、文春はけっこうなスクープも連発するし、面白い記事や読み物が多かったと思う。

週刊文春と同じ日に発売されて、これと対をなすライバル誌として、週刊新潮があるわけだけれど、こちらは何度か買って、読んでみたことはあるのだが、僕はどうも馴染めない。基本的な考え方として、週刊文春が取材によっていいネタを取ってくるということを、なにより重視しているのに対して、週刊新潮は、ネタよりも、それをいかに表現するのかという側面に力を入れている感じがする。文学的なのだよな。FOCUSというのが、スクープ写真とその文学的表現の取り合わせで、一時一世を風靡したことがあるが、これが新潮社の姿勢をよく表したものだったのだと思う。でも僕は新潮社の記事の文体が、どうもエリート臭くて気に食わず、なんだか自分ひとりが解っていて、ほかを見下しているようで、読んでいるうちにムカムカして、週刊新潮を続けて買ったことはない。僕は同じ理由で、朝日新聞も苦手なのだ。

そうして読み続けてきた週刊文春なのだが、最近どうもつまらないのだ。今週発売された週刊文春も、30分で読み終えてしまった。読むところがないのだ。記事もエッセイも、どうも読む気がしない。なんでなのかと不思議なのだ。

エッセイがつまらないということについては、理由ははっきりしていて、週刊文春はエッセイについても、文章の質よりも、その題材を重視するところがあるから、プロの物書きよりも、学者とか、将棋指しとか、ミュージシャンとか、そういう物書きとは別に自分のフィールドを持っている、セミプロ的な人を登用するところがあって、そういう人が軒並みつまらない。今年の新年だったか、紙面の入れ替えがあって、僕が面白いと思っていた人が、連載を終了したり、紙面を縮小されたりし、面白くないと思っていたものが大きくなったりしているのを見て、これは駄目だなと思った。

記事の方もどうも興味が持てず、昔は政界や芸能界のスキャンダルとか、ワクワクして読んだものだが、今はそういう気が起きない。

たぶん僕の年齢的なものはあるのかも知れないと思う。おそらく週刊文春は、40代の男性という層を主要なターゲットにしていて、48歳である僕は、そのターゲットから外れつつあるのかも知れない。編集者もたぶん、僕より若い人が増えているのだろう。そういう世代交代の波に、僕も洗われているということなのかと思ったりする。かといって僕は、月刊の文藝春秋の方だと、今度はどうもおやじ臭くて、やはり読む気がしないから、そうなると僕が読むべき雑誌というものは、見当たらないことになってしまうのだ。これは中年から老年へ至る、端境期的な年齢の宿命なのだろうか。

新聞は読売新聞を読んでいるが、これはわりと気に入っている。基本的に大衆迎合、お涙頂戴的なのだが、朝日のように変にエリートを振りかざして、訳のわからん主張をされたり、日経のように、経済という専門分野に閉じこもって、そこから経済以外の事柄について、無責任な、屈折した意見を述べられたりするよりも、立場がはっきりと解りやすくていい。新聞の意見を信じるというわけではないけれど、僕はテレビを見ないから、インターネットだけだとニュースを自分の中に位置付けることがなかなか難しい。ニュースの重要性を理解するためには、やはりどんなものでもいいから、何かの立場なり、視点なりが必要になるのだと思うのだ。