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2010-10-26

「うまさ」の違い

京都というのは、全国的にはあまり知られていないが、ラーメンがうまい場所で、しかもまったく系統の異なる、違ったラーメンがいくつもある。スープが甘辛かったり豚骨のみを使っただしに、生醤油の品のある風味が一本びしっと通っていたりものすごくこってりしていたり獣臭ただようスープに背脂まで入れて、それを唐辛子で引き締めていたり、それぞれはっきりとした特徴があって、旗印をきちんと掲げている。これは京都という場所が、千年以上都だったということによって培われた、ブランドをつくり上げることのうまさということなのだと僕は思う。ラーメンに限らず、「男前豆腐」などというものにしても、味に特徴があるということに飽きたらず、パッケージまで、他にはどこにもない、強烈なものに仕立ててくるわけだ。

それに対して広島のラーメン、広島のラーメンというのも、全国的にはまったく無名なのだが、実は広島というのはラーメンがうまい場所であって、その中でもいちばんの老舗店の味というのが、食べた瞬間に、「あ、僕はこういうラーメンが食べたかったんだ」と思ってしまうような、なぜ店主は僕の気持ちが解るのだと思ってしまうような、そういうものなのだ。京都のラーメンとは違って、特徴と言えるものをあげるのは難しく、むしろ特徴などというものは極力感じさせないようにしているとすら思える。そうではなく、客が何を望むのか、それを過不足なく読み取り、その通りのものを出してくる。余分なものは一つもなければ、足りないものもない。まさに神業とも思えるのだが、広島はラーメンだけではなく、老舗の食堂やお好み屋でも、そういう味を出してくるところは多く、それって「人に仕える」ということの、理想的な姿だと言えるのじゃないかと僕は思ったりする。

ところが面白いことに広島には、それとは正反対の、対極ともいえる姿勢も見えるのであって、広島には「広島つけ麺」という、冷やした麺を激辛のつけ汁につけて食べさせるというものがあるのだが、この元祖と言われる店では、お客に対して、私語禁止、新聞や雑誌を読みながら食べるのは禁止、残すのは禁止、写真撮影も禁止という、ほとんど軍隊かと思うような、日本の一般的な感覚ではまったくあり得ない、そんな店が存在することすら想像もできないようなことが、普通に行われ、客も嫌がるわけでもなく、それに従っている。これは客の方が、店に対して、「仕える」存在になっているということだと思う。激辛な食べ物というものも、ある意味、舌に対する暴力とも言えるわけで、それを口を腫らし、涙を出しながら、黙って食べるということも、従順さの一つの表現と言えなくもない。

名古屋にいた頃には、僕はあまりラーメンは食べなかったのだが、名古屋には「あんかけスパ」という面白い食べ物があって、「あん」という名古屋独特のソースがかかったスパゲティなのだが、これが食べてみても、何が原料なのかまったく解らない、というものなのだ。名古屋というのは、物事をとにかく重ねていく文化であると思うのだが、その「あん」も同じで、ミンチやトマトや、野菜、果物、スパイスなどなどが入っているとのことなのだが、それら材料のいずれの味も感じず、「うまみ」だけが感じられるというものになっている。個別の材料の味が、わざとしないように、味を調整しているのだと僕は思うのだが、それは広島で特徴を消すということとはまた意味合いが違って、それら多様な材料によって、「純粋なるうまみ」というものを表現しようとしているように思えるのだ。個別の材料に固有のうまみではなく、それを超えた、普遍的なものとしてのうまみ。そういう意味では、これは京都とは対極にあるとも言えるよな。