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2010-10-21

カラオケ

日本人は、世界的に見ても、歌をうたうことが特に好きな民族だということを聞いたことがあるけれど、僕もその例外ではなく、酒を飲んで気分が良くなると、歌をうたいたくなり、カラオケのある店に行くことが多い。選択肢として当然、カラオケボックスというものもあるわけなのだが、僕の場合一人カラオケはまったく論外、同僚や仲間何人かで行くにしても、あまり楽しめず、まったく知らない赤の他人がいる場で歌うのでないと、どうも燃えないのだ。なのでスナックへ行くことになる。特にいいのは、店内のいい場所にステージが設置されてる店で、オンステージという感覚がたまらない。

そこで当然、店のオネエちゃんやお客さんに注目されたいわけだが、そのためには歌の善し悪しよりも、まず選曲が命で、お客さんが知っている歌をうたうことが、何より重要になる。年配のお客さんが多い場合、演歌が一番いいのだが、僕は演歌にまったく興味が持てないので、僕が知る限りいちばん古い歌、尾崎紀世彦とか堺正章とか、そのあたりを歌うことになる。60歳くらいの人が多ければ、吉田拓郎を歌ってみたりする。そうやってとりあえず、知ってる歌で注目してもらって、徐々にこちらの好きな歌を聞いてもらうというようにする。

僕は以前、中国パブや韓国パブにだいぶハマったことがあるのだが、そういうところで店のオネエちゃんと仲良くなるいちばんの近道は、オネエちゃんに自分の国の歌を教えてもらうことだ。家でCDを買って一人で練習するなどということは決してしないで、店でその曲を、オネエちゃんにいっしょに歌ってもらうようにする。オネエちゃんとしても、日本人に自分の国の曲を教えるということは、悪い気はしないし、またことばを口伝えで教えるというのは、コミュニケーションの基本中の基本、お母さんと赤ちゃんの関係そのものだったりするわけなので、労せずかなり親密な関係を築くことができる。

僕は大学の頃から、うたう歌は基本はサザン。サザンはまさに僕らの世代の音楽だから、これは仕方ないのだ。サザンはよく、カラオケで桑田そっくりに歌う人がいて、それがまた大きな注目を集めたりするものだが、僕は昔から、それに反抗して、桑田じゃなく、自分の声と歌い方で、サザンの歌をうたうということを試みてきた。たしかにサザンの歌というのは、桑田の声と歌い方でうたうと、一番しっくりくるもので、中村雅俊が以前、桑田が作った「恋人も濡れる街角」を歌ったときにも、桑田風の歌い方をしていた。でも長年やっていると、自分の歌い方でもそれなりに歌えるようになるものだ。

僕はずいぶん長い間、どうも歌がうまくうたえないと思い続けてきたのだが、あるとき急にその理由が解った。鼻から抜ける音を使っていなかったのだ。英語やフランス語と違って、日本語では鼻音は使われないのだが、歌をうたうときには、鼻音をうまく取り混ぜると、歌としての体裁がうまいこと整うように思う。歌をうたうというとき、やはり大事なのは、自分がそこに没入してしまうのではなく、自分をいかに客観的に眺められるようにするか、ということなのだと思うのだけれど、鼻音というのは日本人にとって、日本語として意思を表明するためでなく、音の調子を整えるためだけにあるものなので、それがのめり込む自分を救ってくれるということが、あるのじゃないかという気がする。

昨日はいつも行くスナックへ行って、お客さんが「済州島エアポート」とかいう、韓国を題材とした歌を歌っていたので、久しぶりにテレサ・テンの中国語の歌をうたったら、ママが今度は韓国の歌でもうたってくれと言うので、真に受けて韓国の歌を気持よく歌ったのだ。そしたらそのあとママはカラオケの電源を消して、カラオケタイムは終りになってしまった。僕が誰も知らない歌を朗々と歌ったものだから、座が白けてしまったのだ。そういう失敗も、もちろんしょうっちゅうある。