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2011-02-09

エンジョイ煮付け サバ生姜煮

僕は小さなころから、料理は嫌いではなく、というのは僕は、手作業が好きで、大人がヒゲを剃ったり、左官屋がクワのようなものでセメントをこねて、それをコテで塗りつけていったり、そういう様子をじっと眺めていることが、とても好きな子供だったのだ。
当然母が料理するのも興味があって、幼稚園のころにはスクランブルエッグをつくり、それを同じ幼稚園の女ともだちを家に招いて、食べさせたりしたこともあったくらいで、それ以降も、市販のルーを使ってカレーをつくったり、炒めた野菜をのせたインスタントラーメンをつくったり、くらいのことはしていた。

しかし一人暮らしの経験もなく、結婚した僕は、料理に向き合う機会もなく、そのまま時間がたっていたのだが、その僕が、料理の本当の楽しさを初めて知ったのは、自分でだしを取ったときだったのだな。

正月を一人で過ごさないといけないことになり、雑煮くらいは自分でつくってみようと思って、元妻がやっていたのを思い出しながら、鶏がらでだしを取ってみたのだ。
そしたらなんともうまい鶏のスープが出来、雑煮もうまかったわけなのだが、スープが余っていたので、それを使ってなにかほかの料理もつくってみようという気になるわけだ。
それでそのとき生まれて初めて、レシピを見ずに、鶏の水炊きをつくってみたり、ナスを煮て醤油で味をつけてみたりしてみて、これがスープがうまいものだから、何をつくってもうまいときている。
それから、レシピに頼らず、自分で何をつくろうかを考え、それを実際につくってみるという楽しみを、知るようになったというわけなのだ。

だしを自分で取るということ、ある料理好きの男の友人に聞いたら、彼も料理にハマったきっかけは、自分でだしを取ってみたことだと言っていたし、また僕が別の友人に、自分でだしを取ってみるようにすすめてみたところ、彼も一気に料理にハマっていたから、男が料理にハマるきっかけとして、かなり一般的なものじゃないかという気もする。

考えてみるとだしというのは、料理において、中心ともいえる存在なのだ。
料理の原型というものが、まあ実際にどういうものだったのか、僕はきちんと調べたことはないが、おそらく、肉類と野菜を、大きな鍋でいっしょに煮て、そこに塩と、何かの調味料を入れて味をつけるというものであっただろうと思うのだが、そのとき、そのごった煮がおいしいということは、何より、そこに入れられた肉や野菜からでてくるだしが、おいしいということだ。
だから、このごった煮の場合、料理ができていくということと、だしが取れていくということは、イコールになるわけだ。

料理が発展するにつれて、そのごった煮が分解され、野菜や肉を個別に料理するということになっていっただろうが、そのとき、だしというものも、それ自体として取り出され、「だしを取る」という個別の作業が生まれることになった。
日本ではそこで、かつお節という、だしとり専用の具材も開発されたりしたわけだが、さらにその延長に、化学調味料が発明され、ほんだしみたいなものができてしまうと、どうなったかといえば、だしというのは粉末をパラパラと入れるということになり、料理のなかに実際の作業として、居場所をもつということがなくなってしまったのだな。
料理の中心ともいえるものが、姿を隠してしまったわけで、僕はこのことが、料理というものについての理解を、難しくしている最大の原因なのじゃないかと思っている。

だからこれから料理を始めようという人にたいしては、僕は「化学調味料を使わない」ということを決めることをぜひすすめたい。

これは健康のためとか、自然派とか、そういうこととはまったく関係ない。
僕は化学調味料は嫌いでないし、ラーメンには、やはり味の素が入っていたほうが、おいしいと思う。
そういうことではなく、化学調味料を使ってしまうと、料理の仕組みを理解することが難しくなってしまい、そうすると、料理の楽しさというものも、なかなか感じられなくなってしまうと思うからだ。

まずはだしを取るという作業を、料理の作業全体から、できるだけ分離しないということが、ミニマル料理的な視点からいうと、望ましいと思うのだが、そうでなく、だしを単独で取らないといけない場合も、せめてだしパック。
よく料理の本に、材料の欄に「だし」と書いてあって、初めのころは、それをどうしたらいいのか、よくわからないものだが、昆布や煮干、かつお節でとれば、それはもちろんおいしいが、だしパックでもそこそこおいしいだしが取れる。
だしパックは、水から入れて、5分ほど煮出すだけだが、その5分の時間をケチらないことが、料理の楽しさを知るうえで、かなり大事なことなのじゃないかという気がする。

ということで、じつはこれまでのことは、話が外れていたのだが、昨日は煮魚。

スーパーへ行ったら、長崎産真サバの切り身が、けっこうでかく、色つやもよいのがあったので、サバも旬が終わらないうちに、食べておくことにしたのだ。

塩焼きだったら、塩サバを買ったほうがうまいし、しめサバにまでできるようなものではなかったので、煮付けることにしたのだが、サバの煮付けといえば、味噌煮が一般的だと思っていたが、京都へ来て、2回ほど定食屋へ行き、食べたサバの煮付けが、どちらも「生姜煮」だったのだよな。
甘辛い醤油の汁に、生姜を入れて炊いたものだが、京都ではサバを煮付けるには、こちらがふつうなのかもな。

この「煮付け」という料理法、料理をするようになっても、しばらくは謎で、手を付けなかったものなのだが、おそらく世界でも類を見ない、醤油を使って魚を料理する日本独自の、すばらしい料理法であるといえるのだ。

サバは洗って、皮に十文字の切り込みを入れておく。
これをやらないと、皮だけ縮まって、魚が反りかえってしまうのだ。

煮付けるときの最大のポイントは、水の量で、鍋の大きさなどにもよるとは思うが、26センチのフライパンでやるなら、酒と水をあわせて1カップ。
これは魚の量によらない。
僕は酒と水は、半々で入れる。
これだと、魚の厚みにたいして、ひたひたにもならない分量なわけだが、煮付けは煮るのとは違うのだ。

これにあとから、みりんと醤油を入れるわけだが、ここに落し蓋をして、強めの火で煮立てると、魚から出てくるゼラチン質かなにかの成分と、みりんと醤油が組み合わさることによるのだろう、汁に粘度がでて、泡がモコモコと沸き上がってくるのだ。
みりんや醤油を入れないと、こうはならない。
魚とみりんと醤油、あくまでこの3つの、三位一体の協力により、沸き上がってくる泡なのだ。
この泡を、落し蓋をすることによって、魚の上からかぶせることで、魚に火を通し、さらに汁が煮詰まっていくことにより、味をつけ、という、なんともうまいことをするわけなのだ。
「煮る」と「蒸す」の、中間みたいなやり方なのだな。

このやり方を考えついた、日本の昔の人たちは、ほんとにたいしたものだと思うし、その伝統を受け継ぐという意味でも、煮付けはぜひ体得したい。

フライパンにこの1カップの酒と水を入れ、そこにまずみりんだけ、ドボドボと入れて、生姜煮だから当然、細く切った生姜を入れ、さらにせっかくだから、サバとは相性抜群の大根を、うすく切って入れ、火にかける。
煮付けは短い時間で、魚に味を入れないといけないので、先に甘みだけ入れ、あとから醤油を足したほうが、これは甘みと塩味の分子の大きさによるそうで、甘みの分子のほうが大きいから、塩味の分子が先に入ってしまうと、あとからは入れなくなってしまうということらしいが、うまくいくのだ。

汁が沸騰したら、そこにサバを入れ、ペーパータオルの落し蓋をして、火加減は強めの中火、汁がきちんと沸き上がるようにしながら、2、3分煮る。

そしたら醤油を、これもドボドボと入れる。
ここで味を見て、醤油とみりんを加減して、火は強めの中火のまま、5、6分。
煮時間はぜんぶで7、8分、10分を超えてしまうと、煮過ぎになる。

終盤は、汁が煮詰まってくるから、この煮汁をスプーンで上からかけて、魚にさらに、味をしさせるようにする。
汁の煮詰まり加減が足りないと思ったら、火を強くして、煮詰めてしまうようにする。
要は、7、8分で、ちょうどうまく煮詰まるくらいの水の量が、カップ1ということなのだ。
でも家のIHレンジだと、イマイチ火が弱くて、昨日はきちんと煮詰まり切らなかったのだけれど、まあそれでも、たいして問題ない。

いやこれは、抜群だったです。
やはり今のサバは、脂がのっててほんとにうまい。
いっしょに入れた大根が、また味がしみて、なんともおいしくなりました。

昨日はあとは、白菜のおしたし。
最近どうも、肴の量が多すぎて、肴がなくならないものだから、延々と酒を飲んでしまうということになりがちだったので、品数を一つ減らしてみたのだが、まあちょうどよかったです。
ただシメの汁物が、やはりほしかったかも。

酒は花酔の熱燗。
男の味。

ちなみに、昨日の昼めし。

おとといの、鯛チリ鍋の残り汁をペーパータオルで漉し、塩と隠し味ていどの醤油を入れて、雑炊。
発泡酒にじゃこおろし付き。
いやこれも、死にました。