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2011-04-03

アサリと白菜の小鍋だて

先日受けた塾講師アルバイトの面接の不採用通知が昨日とどいて、まあだいたいこのご時世、仕事がそうそう簡単に見つかるというわけもなく、それに
「手取り月額20万円を希望いたしております」
とか履歴書に書いてしまったから、そりゃ敬遠されるよなともおもい、とくべつ落ち込んでいるというわけではないのだけれど、やはり生活費の全額を一か所で稼ぐというのはちょっと難しいかもしれないなと思い直して、今日は「ライター」の仕事というのをネットでいろいろ探して、10件ばかし応募してみた。
ブログやらサイトやらの、埋め草原稿を受託するものなのだが、これがまた安くて、400字で100円くらいというのが相場。
僕はむずかしい内容でなければ、1時間に4,000字程度は書けるのだけれど、そうすると時給1,000円という計算になる。
こちらは時間の制約もないし、通勤の必要もないから、うまくこの両方をあわせて、ぎりぎり生活していかれる程度の稼ぎになったらいいなと思っている。



僕は前の会社で、5年ほど役員もやっていて、というか正確には前の会社は非営利団体だったから「理事」なのだが、それで「会社の経営」というものも知らないわけではないのだけれど、どうも僕には経営はあまり向かない気がする。
僕はどうも、「お金」にたいして情熱がわかなくて、もちろん必要な、大事なものだということはわかっているのだけれど、それについて考える時間が「無駄」のようにおもえてしまう。
「お金について考えずに暮らしていけたらいいよね、そりゃ」
とか言われそうだが、もちろんそれは僕だって考えなければ暮らしていけないのだけれど、まったく興味がわかず、考えていてもワクワクしないので、できればそれを考える時間は最小限にしたい。
車や家、その他高度な電化製品もとくべつ欲しいとおもわないし、ギャンブルにもこれまでの人生で、関心をもったことがない。
最低限の生活が送れて、できるかぎりの時間を自分の興味のあることに当て、65歳でポックリ死ぬというのが、僕は自分の人生としては理想だな。



南木佳士という作家の「天地有情」というエッセイ集を、人にすすめられて読んだ。
いきなり話はそれるが、僕は「小説」というものが全然ダメで、だいたい興味がわかないし、いくつか読んでみようとしたものもあるが、最初の数ページ、または数十ページで挫折してしまう。
村上春樹も「海辺のカフカ」というのは上下巻とも文庫で買い、また「1Q84」は本屋で立ち読みしてみたのだが、どちらも3ページほどで「これはダメだ」とおもいやめてしまった。
どちらも冒頭で、「謎」をかけてくるのだな。
これは僕にいわせれば、読者を引き入れるための「テクニック」であって、もちろん小説家にとって、それが必要であるというのはわかるのだけれど、「そんなものには騙されないぞ」とつい身構えてしまって、ページを閉じてしまうのだ。
高村薫の、もうタイトルも忘れてしまったが、1年前くらいに出た最新刊、それも単行本の上下巻を買って読みはじめたのだが、50ページほどでやはり挫折してしまった。
この小説では冒頭から、刑事である主人公の精神状態がおかしくなり、西新宿のビルが夏の炎天下に溶けてしまうように感じられるというような場面がつづいたりするのだけれど、まあ病気の人は気の毒だとおもうけれど、僕はそれ以上には興味はもてないし、ましてや精神病患者の視点をとおして、「社会を批評する」というようなやり方には、なんの正当性も感じることができないのだ。

というわけで「天地有情」、作者は芥川賞を受賞した小説家だそうで、たぶん僕は、これが小説だったら、最後まで読めなかったのじゃないかという気がするのだが、これはエッセイ集だったので、わりかし楽しく、最後まで読みとおした。

作者は「医者」で、医者というのは年に何百枚も「死亡診断書」を書くような仕事だそうで、目の前のひとが次々と亡くなっていくという現実の過酷さに耐えかねて、はじめは酒をのむことによって気を紛らわしていたら、からだを壊し、それで小説を書くようになったのだという。
そうやって小説を書くことにより、自分の精神の平衡をたもっていたつもりだったのが、10年ほどたってそれにも破綻をきたし、「パニック障害」から「うつ病」になってしまい、家から一歩も出られなくなり、医者の仕事もしばらくは休んで、それでも小説は書いていたということらしい。
うつ病のころに書いた小説は、「自分を癒すため」だけに書いたもので、自分の身近で亡くなった人をよみがえらせ、その人たちと対話するというものだったそうなのだが、それが芥川賞をとり、映画化もされて、それ以来小説家として認められるようになったのだそうだ。

「天地有情」というのは哲学者の「大森荘蔵」のことばだそうで、
「世界は客観的に存在するものであると近代の思想は信じているけれど、じつはそうではなく、世界はあくまで個人の内側にあるものであり、一人ひとりの感情がそのまま反映されたものなのだ」
ということを意味している。
精神病である自分にとって、世界はいかにも恐ろしげに映るものなのであるが、それはなにも精神病患者が幻覚をみているということではなく、それはそれで、やはりひとつの「世界」なのだ、それを実際に、正当な世界であると認めるところから、自分は立ち直ることができたのだし、またもしかしたら人類の今後というものを考えたときにも、それは大事なことなのじゃないかということも、言外にいおうとしているかとおもう。

これはしかし非常に微妙なところで、ふつうならば「精神病患者がなんのたわごとをいっているのか」と一蹴されかねないことなのだとおもうのだけれど、それがそうされずに、この人が作家として認められ、成り立っているというのは、この人自身の「生き方」によるのだとおもう。
この人は芥川賞をとり、作家として認められたあとも、医者をやめず、あくまでそれを生業として、休日の空いた時間に作家としての活動をするということをつづけている。
自身の作品が映画化されたときも、現場へもいかず、原作者のあいさつなどもせず、いっさいのかかわりをもたない。
それは要は、
「自分は自分の作品を、自分を癒すためだけに書く」
という姿勢をつらぬくことであり、そういう生き方がきちんと背景にあることで、この人の作品の特殊な立場が世の中に認められているということなのだとおもう。

しかしそれって、「文学」にとっては、たしかに「いのち」ともいえることなのだよな。
僕は小林秀雄を読んだときにも、ものすごく強くそうおもったのだけれど、文学作品がつたえようとしている内容というものは、科学的なこととはちがい、いかなるかたちでも「証明された」といえるものではない。
あくまでその作者の「考え」であるわけだ。
だからそれを「信じるのか、信じないのか」ということは、なにかの実証によるのではなく、その人自身を信じるのかどうか、というところにかかってくるのだな。
そしてそれを保証するのは、
「その人の生き方」
そのものであるわけだ。
自分が作品のなかに込めている内容と、自分自身の生き方が矛盾しないこと、それのみによって、文学作品の「正しさ」というものは成り立っているのであって、この「南木佳士」という人は、それをよくわかっているということなのだとおもう。



おとといの晩は、このごろはアサリが旬で、安く出回るようになっているから、それと白菜の小鍋だて。

ポン酢に七味を振りこんで食べた。

昨日は天然のブリが、またこれが安かったので、やはり安かったほうれん草、しいたけと一緒に小鍋だてにした。
ほうれん草としいたけはこのごろ値が下がっていて、それぞれ水菜、しめじよりずいぶん安くなっているのだけれど、これはいまが旬だということなのか。
やはりこれも、ポン酢に七味。

酒は「大七からくち生もと」で、昨日とおとといでこれを2合ずつのんで、のみ切った。

今日の昼めしは、もうこれは毎度のことだが仕方ないのだ。
「新福菜館三条店」。
僕はこの店の中華そばのジャンキーだから、今日これがとても食べたかったというわけでもないが、食べておかないとかならず数日後に禁断症状が出て、食べないわけにはいかなくなるのだ。

今日はビール中瓶とキムチ、ギョウザ、それに中華そばと白めし小の、フルコースにしてみた。
中華そばにはチャーハンを合わせるという手もあるのだけれど、僕はこのこってりと甘辛いスープで白めしを食べるというのがうまいとおもう。