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2011-04-23

吉 野

おとといから昨日にかけて、またよく遊んだのだ。
仕事もしておらず、金にも限りがあるのに、よくそんなノンキに遊んでられるねと言われそうだが、まあたしかにその通り。
でも遊びというのも、人生にとっては非常に大事なことだとおもうので、こういうことをあまりケチってはいけないのだ。

おとといの晩は、家からわりかし近くにある「啓ちゃんのスタンドバー」で外飲み。
ママである啓ちゃんから、メールをもらったので出かけてきた。
いやバーのママがメールを寄こすというのは、疑いようもなく単なる営業なのだけれど、営業であっても、メールをくれたことには変わりがないわけだ。
それでさらに、それが嬉しかったりするのだったら、素直に喜べばいいというだけの話なのである。

僕が飲みにいく店は例外なく安くて、この店も酒は400円から500円、つまみも200円から400円で、それでやさしいママと、べちゃべちゃ話をしながら飲めるのだから、これは言うことない。
ほんとはここはスタンドバーだから、短めにサッと切り上げるのが粋というものなのだけれど、おとといは2時間ほど長居して、10時半の閉店時間ギリギリになって店をでた。
ビール1本に冷や酒2合、それにサービスの冷酒1合くらいを飲んだから、けっこういい気持ちになり、帰って風呂に入って、そのまま朝まで熟睡した。

昨日は朝から吉野へ行った。
最近仲良くしてもらっている知人の女性がいて、年は僕より一回り上なのだけれど、わりと気が合う。
僕は自分が女性的だからなのだとおもうが、わりと男っぽい、さばけた女性が好きで、子供のころもよく女の子とゴム段したりしてた。
運動が得意な女の子の「手下」的な位置にいるのとかが、居心地がよかったりするのだ。
今でも「女の中に男がひとり」みたいな状況は、僕は最も落ち着ける。

それでその知人は、いろいろ話をして、僕が京都を褒めたりすると、どうも気に食わないようなのだ。
僕は世の中には、どうも「京都派」と「奈良派」があるのではないかという気がする。
それは「巨人と阪神」、「大鵬と柏戸」、「自民党と社会党」みたいな、ってどれも古いが、主流派びいきと反主流びいきとの対立の構図で、僕はわりと、言動は反主流的なことを言いながらも、根本的な趣味のところでは非常にミーハーなところがあって、アイドルは松田聖子、バンドはサザンオールスターズ、基本的に王道を歩いてきたものだから、「南禅寺の桜」とか、こけおどし的なところがあるのはわかっていても、すごくいいとおもってしまう。
ところがそういう話になると彼女は、
「いや奈良の桜だっていい」
と主張し、吉野の桜を見に連れていってあげるということになり、それで昨日、彼女と彼女の友人と3人で、出かけていったわけなのだ。

奈良というのは、基本は「廃墟」なのだよな。
いかにも「日本の田舎」という感じの風景のなかに、朽ちかけた寺や神社があったりして、京都の寺社は今でも現役バリバリで、そのほとんどが本山だったりするわけで、生々しい、宗教の臭いがプンプンするところが多いわけだが、奈良は枯れていて、いわゆる有名な観光地はべつとして、半ば朽ちながら、まわりの野生の自然と調和していたりするところがある。
それでそれが、打ち捨てられているというわけでもなく、地元の人の手によって手入れをされ、そのひとたちの信仰の対象になっているという、なんとも自然な様子が見られるのだ。

ああいう自然な良さというのは、たしかにハマると中毒になるところがあるのかもしれない。
志賀直哉をはじめとして、奈良に魅せられた文化人も多かったわけだしな。
僕はまだその境地には達しないが、たしかに奈良は、歩いていると、いちいち強く主張してくる京都とはちがって、心がほっと落ち着くところはある。

それで昨日は、吉野の桜は、残念ながらもうほとんど終わってしまっていて、ちゃんと見ることはできなかったのだけれど、奥深い青々とした山のなかに、絵の具ではたいたように、あそこここに桜のピンク色が、ぽわぽわと浮かんで見えるというのは、たしかに桜のきれいさの一つの大きなあり方であって、これが見ごろだったら、さぞすごかっただろうなとおもった。

帰り際に宇陀市にある小さな寺へ寄ったのだが、たまたま住職がいて、話す機会があったのがおもしろかった。
僕よりたぶん、すこし下くらいの年じゃないかとおもうのだが、もともと郵便局員をしていたのが、思い立って仏教系の大学でインド哲学を学び、それから出家して大きな寺で修行をし、次に今の寺へきて、先代の住職の教えをうけ、2年前からその跡目を継いだのだそうだ。

僕は今回の震災以降、近所の寺社をお参りし、被災したひとたちの多幸を祈るということをしていて、僕は以前には宗教にはまったく興味はなかったのだが、被災したひとたちに対して、ただお金をわたすというだけでない、なにか気持ちを込めたことがしたいとおもい、結果として「祈る」というところへ行き着いたわけなのだけれど、もしかしたら僕に限らず、時代がそういうところへ向かっているのじゃないかと、僕はちょっとおもったりするところもあるのだよな。

これまで日本は、宗教にほとんど関心をもたずに、数十年を過ごしてきたわけだけれど、それは世界的にみても珍しいことなわけで、ふつうはどこの国の、どんな地域の人たちだって、それなりの宗教というものをもっていて、信仰するということをしているのだとおもう。
日本が手本にしてきたアメリカだって、アメリカ人の多くは、キリスト教を熱烈に信仰しているのであって、文明が進歩すれば宗教は必要なくなるということではまったくないだろう。

僕は今回、祈りをするようになって、「天国」ということの意味もよくわかって、亡くなったひとのことをおもって祈りを捧げるというとき、やはりそのひとの「多幸」を願わずにはいられないわけで、そうするとどうしても、「亡くなったひとが幸せに暮らす場所」というものを考えることが必要になるのだよな。
だから天国というものも、宗教団体が勝手に作ったということではなく、人間の思考のあり方の根本に位置するものなのだということを、あらためて感じたりしているわけで、僕は昨日、そうやってこのところ自分がおもっていることを、住職にぶつけてみたのだ。

そしたら住職も、やはりおもうところがあるみたいで、今ブログやツイッターを立ち上げつつあり、一般のひとに広く発信するということを始めようとしているのだそうだ。
住職の親類が何人も、今回の震災でなくなったとのことだし、また福島で被災者の救援にあたっている仲間の僧侶がいて、住職はそのひとと連絡をとりながら、物資を集めて送ったり、後方支援的な活動をしているそうなのだけれど、避難所の生活というのは、もうマスコミが話題にできないほど、ほんとうに悲惨なものなのだそうだ。
そういうことを見聞きしながら、宗教者として何ができるのかを、日々自問していると言っていた。

僕はいまこそ、伝統あるきちんとした宗教が、インターネットもふくめて、何らかの発信をしていくべき時じゃないかという気がするのだよな。
自分の心をどう落ち着けたらいいのかということを、考えている人は多いはずで、下手をすると悪質な新興宗教がそこで勢力を伸ばそうとしていくなんてことも起きるのじゃないかという気もするし、じっさいそういう話もあるらしい。
ぜひがんばってくださいという話をして、昨日は住職と別れた。