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2011-12-04

京都の秋を味わう。
南禅寺の紅葉と湯豆腐


京都のことを、「俗っぽい」「あざとい」というひとがいる。京都に生まれ育ったひとでも、

「観光客ズレしていて、ちょっと・・・」

などと、自分で言うことがあるのだけれど、これは当たらないというべきだろう。

京都をそのように言うひとは、かならず返す刀で、

「奈良のほうが、素朴でいい」

というわけなのだが、京都が俗っぽいのは、それがまさに、京都が千年以上にわたり、都であったことの証拠であると、いえることだろう。

都とは、俗っぽいものだ。権力があつまり、そこでさまざまな陰謀やら、かけひきやらが行なわれるのだから、都は、俗のかたまり、俗の集大成であると言ったっていいものだ。

それをいかに覆い隠し、本性は俗であるにもかかわらず、俗と見せない工夫を、どうできるのかが、芸術というものだろう。芸術はいつだって、権力が集中し、金が集まるところに生まれていく。俗っぽさは、芸術を生み、育てるための、肥やしであると言ったっていいだろう。



京都の寺は、たしかに観光客ズレしているけれど、それだって、今に始まったことではないはずだ。

むかしは「観光」という考え方とは、ちょっと違ったとはおもうけれど、京都の寺はほとんどすべて、ある宗派の総本山になっているから、地方から都へでてきて、お寺参りするひとびとが、あつまる場所だったことだろう。

そういう、いわば田舎者にたいし、

「おぉ、さすが都じゃわ・・・」

とおもわせることは、寺を全国展開し、経営していくうえで、必要なことだったに違いない。だから京都が観光客ズレしているのは、何も今にはじまったことじゃなく、千年以上にわたり、ずっと観光客ズレしていたと、言ったっていいのじゃないかとおもう。



清水寺や銀閣、金閣なども、まさにそういうハッタリにあふれている。だいたいお堂を金色に塗るなどということは、それを見たひとを驚かすこと以外の目的が、あるとは考えられない。清水寺や銀閣も、境内を歩いて行くにつれ、景色が変わり、それが歩くひとに効果的に、感動させるように、建物や木々の配置が、綿密に計算されている。

清水寺の、清水の舞台をまわりこみ、奥から寺を見おろす景色など、まさに典型で、右手に清水寺の建物、左手には東山の山麓が連なり、正面には京都の市街地が一望できる。さらにその奥には、嵯峨野の山々がみえる。自然と人工、東と西、昔と今、そして天と地がひと目で見わたせるまさに絶景で、清水寺が京都の観光地の、代表格になっていることも、疑問の余地なくうなずける。



清水寺は、清水坂から三年坂、二年坂とつづいていくあたりの街並みも、また見事で、みやげもの屋ばかりではあるが、胸がキュンと、苦しくなるほどの、なつかしさを感じる。

しかしこのなつかしさだって、私が実際に日本のむかしを知っていて、それを思い出してなつかしくなるということではないはずだ。私が生まれた昭和37年に、日本のむかしの風景など、とうになくなっていただろう。

そうではなく、このなつかしさは、「日本人の美意識」を、そのものズバリで見せつけられることによる、感動なのだという気がする。

高度経済成長期に生まれ、古き良き日本など、たいして味わうこともなく、成長してきた私だが、心の奥底に、わずかばかりの日本人の美意識が、たぶん残されている。京都の風景は、そのわずかばかりの美意識を、わしづかみにし、揺さぶってくるだけの力を、もっているということなのだろう。




これまで2年ばかりの間に、京都の寺社をまわったなかでは、紅葉は、南禅寺がいい。南禅寺は清水寺や金閣、銀閣などにくらべると、有名さの度合いでは、ワンランク落ちることになるのだが、紅葉のうつくしさは飛び抜けている。境内の全体が、紅葉をうつくしく見せるよう、設計されているのだとおもえる。

まず門をはいり、参道へむけ左に折れると、青々とした松を背景とし、赤や黄の紅葉が、鮮やかに色を添えているのに目をうばわれる。紅葉が松と組み合わされるときれいだということを、境内を設計したひとは熟知している。

その紅葉に導かれるように、三門にむけ参道を入ると、三門がちょうど、左右の紅葉、それに松に、覆いかくされるようになっている。歩いていくごとに、三門の姿ははっきりと見えるようになっていく。

そして三門の石段を、トントンと上がると、そこには有名な、「額縁」がある。三門の柱と梁にかこわれた、四角い空間のちょうど正面に、真っ赤に燃え上がる紅葉が見える。

その紅葉にみちびかれ、三門をぐり抜けると、そこには青と赤とオレンジと黄色の、あでやかな世界が広がっている。



参道をあるき、三門をくぐり抜けるまでの、この視覚体験は、いうまでもなく、綿密に計算され、設計されている。よくできた芝居のように、何度みても、感動を呼びおこすものであって、たしかにあざといといえばあざとい、たいへん人工的なものだが、これをひとつの芸術と呼ぶことに、まったく不足はないだろう。



三門をはいってからも、もみじはさまざまに効果的に、使われている。

さまざまな色の紅葉が、一カ所にあつまり、まるで燃え上がっているかのうような光景。

借景の東山も、効果的に使われる。

法堂へむかう道には、もみじのトンネルがあしらわれている。



方丈の紅葉も、またきれいだ。

枯山水には、一本の紅葉があしらわれている。そこから舞い散る赤い葉が、掃き清められた砂を彩っている。

奥には回廊があり、ここを歩きながら、また紅葉の景色をたのしむことができる。

青い苔と、赤い紅葉の見事なコントラスト。

茶室は紅葉にうもれている。

池を彩る紅葉。

まさに紅葉づくしといった風情だ。




南禅寺は、門前に湯豆腐の店があることでも有名だ。「奥丹」が老舗でもっとも知られているけれど、「順正」もいい。

熱燗を1合。

豆乳。

胡麻豆腐。

煮物。

精進天ぷら。

豆腐の味噌田楽。

それにこの湯豆腐、たいへんうまい。

嵯峨野の豆腐は、絹ごしのやわらかなものだが、こちらはソフト木綿で、すこし歯ごたえがあり、深いコクがある。柚子の風味がきいている。

店員がフタをあけにくるタイミングが、また非常に工夫されていて、まだ煮立ったばかりで、豆腐の芯まで、火が通っていないところでフタをあけてくれる。はじめは中がひんやりした豆腐を味わい、食べすすむうちに、芯まで熱くなるようになっている。

白あんのカステラ。

値段は3千円で、味もよし、店員の感じもよしで、非常に良心的。