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2012-03-14

魚の煮付けは目分量でやるのがポイント。
「ぶり大根」


しじみは「二日酔いに効く」んだそうです。

このごろシジミの味噌汁にすることが多く、翌朝うどんを入れて食べると、酒がのこった身体にキクような気がしていましたが、やっぱりそうだった。

しじみにはバランスよく必須アミノ酸が含まれているから、アルコールによって損傷をうけた肝臓を修復するのに、効果的なんだとのこと。

その他にも、ミネラルやら、タウリンやら、グリコーゲンやら、肝臓が二日酔いから立ち直るのに役立つ成分がたくさん入っている上に、しじみは低脂肪だから、肝臓の負担にならないんだとか。

そういう説明を見ると、「なるほどねー」とは思うわけですが、もう一方で、「そんなの言われなくても知ってたよ」とも、思うことになるんですよね。

オレの身体は、細かいことはわからなくても、しじみが二日酔いに効くことは、はじめからわかってた。



物事をくわしく分析することにより、それまではよくわからなかった様々なことが、明確に理論化できるようになったというのは、たしかにいいことですよね。

現代の文明は、そういうやり方で生み出されているわけで、その恩恵を、誰だっていっぱいに受けている。

こうやって、自分のヘボな料理をブログで公開し、それを多くの人に見てもらえることだって、パソコンやインターネットが発明されたからです。

現代文明の利器が、世の中からなくなってしまったら、ほとんどの人は、生きていくことすらむずかしくなるかもしれません。



でも、そういった分析と理論化が、「すべてではない」と知っているのは、大事なことだと思うんですよね。

分析や理論化がされる前から、しじみが二日酔いに効くことは、「オレの身体」は知っていた。

人間の肉体は、今のように分析や理論化が始まる何十万年も前から、ずっと存在しつづけてきたわけだから、分析や理論化によらなくても、自分にとって必要なことを感知する能力は、すでに備えていたはずでしょう。

しじみが二日酔いに効くことが、分析や理論化されることは、自分の肉体が感知していたことを補強することではあるけれど、今はじめてわかったわけではない。



料理についても、おなじことが言えるんじゃないかと思うんです。

分析と理論化がとり入れられ、そのために「計量スプーン」が発明された。

計量スプーンはたしかに、知らない料理の大まかな作り方を知るには便利なものだけど、毎日料理をしている人で、実際に調味料を計量スプーンで計っている人は、そう多くはないのではないでしょうか。

計量スプーンは、料理に慣れてくると、「使わなくてもできる」ものになってくるわけですが、さらに言えば、計量スプーンを使おうとすることで、かえってわかりにくくなってしまうことが、あるんじゃないかと思うんです。






「魚の煮付け」が、「なんだか苦手」と思っている人は、少なくないんじゃないでしょうか。

知り合いの反応を見ていると、魚の煮付けを作った時に、「すごいねー」と褒められることが多いような感じがする。

魚の煮付けは、べつにむずかしい料理でもないし、たぶんカレーやシチューなど、肉を煮込むことに親しんでしまっていて、魚を料理するのが身近じゃないということなのかと思っていたんですが、それだけじゃないんですね。

「計量スプーンをつかった思考方法」が、魚の煮付けをわかりにくくする大きな原因だったんです。



たとえば魚の煮付けを作るとして、一人分の調味料の分量が、

・ 水カップ2分の1
・ 酒カップ2分の1
・ 砂糖大さじ3
・ みりんカップ4分の1
・ しょうゆカップ4分の1

であったとするでしょう。

それでは、「これを2人分作るには、どうしたらいいか」という問題があるわけです。

レシピの大前提として、「2人分の分量は、1人分の2倍」であることになっているでしょう。

でも煮付けの場合には、そうはならないんですね。



魚の煮付けをする時には、カレーやシチューなどとはちがって、火を強めにして、煮汁を急速に煮詰めていくことになるわけです。

魚が煮える時間は、10分なら10分と、魚の厚みや脂の多さによって、決まっている。

サバを20分煮てしまったら、パサパサになってしまうわけですよね。

ですから、2人分だからといって、2倍の時間煮るわけではない。

そうなると、おなじ10分なら10分という時間のなかで、蒸発する水分の量は決まってくるわけだから、煮付けの場合には、2倍の分量を作るときでも、水分の量は、変化させる必要がない。

水と酒の分量は、2人分になったとしても、1人分の時とおなじ、それぞれカップ2分の1のままでいいというわけなんです。



それでは調味料の分量が、1人分と2人分とで、すべておなじでいいかといえば、またそうでもない。

煮付けは、煮詰めて最後にのこった煮汁を、ソースとして使うことになる。

魚を器に盛ったら、煮汁を上からかけて、食べるときには皿の底にたまった煮汁を、魚につけたりするわけですよね。

そのソースとしてつかう煮汁の分量は、2人分になれば、やはり2倍にならないといけないから、砂糖とみりん、それにしょうゆの分量は、2倍にする必要があることになるんです。



魚の煮付けはこのように、「煮詰める」という過程がくわわるために、レシピの大前提である「2人分の分量は、1人分の2倍」ということが、まったくくずれてしまうことになる。

そうなると、人数のちがいにより、レシピがどう変わるのかまで、くわしく書かないといけなくなり、それだと複雑すぎるということなんですね。

この複雑さが、「魚の煮付けはむずかしい」と人に思わせる、大きな原因なのではないかと思うんです。



しかし実際に日常的に魚の煮付けを作っている人で、この複雑さを意識している人はいないでしょう。

その理由は、「レシピを見ない」からです。

家族の人数は、ふつう決まっていますから、いったん調味料の分量が決まってしまえば、あとはずっと、それとおなじでやるので問題ない。

べつにレシピの分量を2倍にしたり、3倍にしたりする必要はないわけです。



また日本食の調味料は、甘みとしょうゆの「割合」が重要で、絶対量は、それほど問題にならないということもある。

甘みとしょうゆを両方入れると、おたがいが味を打ち消しあって、「塩からさ」は、甘みとしょうゆの中間あたりに落ち着くことになる。

だから、たとえば、「みりんとしょうゆ、それぞれ大さじ1」と、「みりんとしょうゆ、それぞれ大さじ2」は、それぞれ「おなじ塩からさ」がするということになるわけなんです。

甘みとしょうゆの絶対量は、「濃さうすさ」に関係してくるもので、それはどのようなものでも、完全に好み次第、こってり濃い味が好きな人もいれば、あっさり薄味が好きな人もいる、ということなんですね。



魚の煮付けはこのように、レシピとして表現すると、非常に複雑になってしまうのに、それを目分量で適当にやってしまえば、それなりにおいしく食べられるものになる。

レシピには、まったくそぐわないものであるのだと思うんです。

それが、レシピの思考方法に慣れた人から見ると、「むずかしい」と感じてしまうことにつながっているのだと思うんですが、なんのことはない、

「魚の煮付けは、目分量でやれ」

ということなんですね。






というわけで、前置きが異常に長くなってしまい、申し訳ありませんでした。

昨日はぶり大根。

ぶりはアラを使ったほうが、安いし、ぶり大根にするには、脂が乗ってて切り身よりうまいです。

アラはあらかじめ塩をふり、30分以上おいて、湯通しし、水でよく洗って、血のかたまりやヌメリを落とす。

湯通ししたアラと、箸がすっと通る程度に下ゆでした大根を鍋にならべ、酒1カップと水2カップ、それに砂糖をバサバサと入れ、みりんをドバドバと入れる。

鍋を強火にかけて、出てきたアクをていねいに取り、落としブタをして、強めの中火で10分くらい煮る。

10分煮たら、味を見ながら、塩からさがちょうど良くなるまで、しょうゆを入れる。

カップ3の水分を入れてあるから、だいたい30分くらいで、うまく煮詰まるはずなんですが、最後は落としブタをはずし、煮汁を上からかけながら、煮汁がちょうどいい分量のこるくらいまで、煮詰めていけば、出来あがり。



ホクホクに炊けたぶりに、味のしみた大根は、やはり最高のとり合わせですよね。

七味をふって食べてもおいしいです。



あとは、ほうれん草のおひたし。



しじみの赤だし。



熱燗を、2合半。



朝は、しじみの味噌汁にうどんを入れて食べました。