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2012-04-20

「日本」など変えられない。
「ラタトゥイユ」




「日本を変える」などというのは僭越な話で、日本など変えられるわけがない。

昨年の原発事故をきっかけとして、日本の中枢が腐っていることが、誰の目にも明らかになってきたもんだから、坂本龍馬きどりで「日本を変える」と意気込む人が、続々と登場しているわけだけど、「日本」など変わらない。



現代の坂本龍馬は、日本の「システム」を変えれば、日本が変わるという。

政治や経済、教育、などなどのさまざまなシステムが、日本の現状には合わないものになっているのだから、革命をおこして、システムを別のものに取り替えてしまえば、問題は解決する。

たしかに現在、日本の中枢で政・産・官・学が癒着して、自らの利益を追求するさまは、なんともおぞましく、ここに日本の大きな問題点があるのはまちがいないでしょう。

でもシステムを替え、人を替えれば、その問題は解決するのか。



日本人はこの10年ちょっとのあいだで、2度も革命を成し遂げたのではなかったでしょうか。

1度目は小泉内閣。

小泉首相は、官僚や財界と癒着した、腐った自民党を「ぶっこわし」、日本を変えてくれるはずだった。

たしかに小泉首相は、郵便局と自民党との癒着は、断ってくれたのかもしれません。

でもけっきょく癒着は、ただ別の場所へ、姿を変えて移動しただけだったのではないでしょうか。



それから日本人は、「政権交代」も実現した。

ずっと支えてきた自民党に見切りをつけて、新しく、しがらみがない民主党に政治をまかせることにした。

しかしその結果が、この体たらく。

あっという間に絡めとられて、新たに癒着してしまうだけだった。



仏の顔も3度までというから、日本人はもう1回、誰かにチャンスをやるのかもしれないけれど、僕は気が短いから、2回で十分わかりました。

日本の問題は、「システム」だとか、「トップ」だとかいうところにあるのではない。

日本人の「考え方」、そのものにあるのです。



だいたい「明治維新」とか「終戦」とかいうことが、とても前向きに、「いいこと」のように捉えられるけど、ほんとうにそうなのか。

もっといえば、織田信長の天下統一。



たとえば明治維新は、腐りきった無策な幕府に統治された日本が、海外列強からの植民地支配をうけるのを救ったということになっている。

「歴史に if はない」といわれるから、「明治維新がなかった場合の日本」など考えられないわけですが、たしかにそういう側面はあったのかもしれません。

しかしその明治政府も、あっという間に劣化して、陸軍の暴走をまねき、太平洋戦争へ突入し、日本を破滅の淵へ追いやったのではなかったでしょうか。

今の民主党政権と、何も変わるところはなかったのではないかと思えるんですね。



戦後民主主義の華々しい登場も、結末は今見ているとおりのものだった。

織田信長の天下統一だって、けっきょく江戸幕府の腐敗を生み出しただけだということも、いえるのではないでしょうか。



そうやって考えてみると、日本は「いつか来た道」を、堂々巡りのようにくり返し、また今、ふたたびおなじ過ちを犯そうとしているように見える。

もちろん「人間なんて所詮そんなもん」なのかもしれないけれど、それではあまりに寂しすぎるんですね。

やはり、すくなくとも自分は、「これまでにはなかった日本」ができることに希望をもちたいし、そのために何か、自分ができることをしているようでありたいと思う。



日本の問題の、根本に何があるかと考えたときに、

「仕事を生活だと思ってしまう」

ことがあるんんじゃないかと思うんです。

このことは、日本が発展するときには、巨大な力をうみだす元となるけれど、同時にこれが、日本が急速に腐敗する、大きな原因ともなる。



仕事とは本来、人がそれぞれ、ある「機能」を果たすためのものでしょう。

企業なら、企業全体の「目的」があり、経済性を満たすための「構造」があって、その中で、社員の1人1人は決められた「責任」を果たすこととなる。



ところが日本人には、この「機能」が、無味乾燥なものに見えてしまうんだと思うんです。



昔の人は、よく黒電話を、敷物の上にのせたりしていたでしょう。

テレビにも掛物をかけたり。

電話やテレビは、本来ある機能を果たすためにあるものだけど、日本人は家のなかに、「機能だけをもったもの」が存在するということに、居心地の悪さを感じるということなのでしょう。

だから敷物をしいたり、掛物をかけたりして、電話やテレビを、仏壇でもあつかうように、なんとなく「人」に近いものと考えたくなるのでしょう。



現代の人が、電話に敷物をしたり、テレビに掛物をしたりは、もうあまりしないかもしれませんが、その心性がなくなったとはいえません。

「着メロ」などは、まったくおなじ気持ちから出ているものだといえるでしょう。

日本人は、電話の着信音が、ただ「着信を知らせる」ためだけにあることに居心地の悪さを感じるから、すこしでも自分の「想い」をこめられるメロディに、変えたいと思うのではないでしょうか。



どんなものに対しても、「人格」を認めようとすることは、日本人が古来から、営々とつづけてきたことでしょう。

日本人は、さまざまな自然の脅威にたいし、「神の仕業」と考えて、これを祠に祀り、鎮めるために祈ってきた。



「自然」という、ほんらい人間の意志とは関係がないことにまで「人格」を認め、それを自分なりに解釈し、折り合いを付けていくことは、日本人の美点でしょう。

それは人間関係の上でも、「相手の気持を推しはかる」という形で、人間同士の無用な摩擦を減らす役割を果たすことになる。



しかしこの美点が、日本人の大きな欠点にも、なってしまっているのだと思うんですね。



現代の会社組織は、日本の古来からあったものではありません。

明治に入ってから、西洋から輸入されました。

「雇用」はほんらい、「契約」に基づくもので、純粋に機能的に定義されている。

しかし日本人は、この「契約」を、西洋の人達がやったように、血のにじむような努力をして勝ち取ったのではなく、手軽に海外から取り入れてしまったために、それを自分流に解釈してしまうことになったんですね。



雇用に契約が持ちこまれることは、本来は雇用主の不当な搾取から、労働者を守るためにあったものでしょう。

労働者が不当に安い賃金で、長時間働かされることにより、生活が破壊されるのを防ぐために、「仕事」と「生活」を切り分け、労働者の生活を確保するのが目的だった。

ところが日本人は、この契約を、労働者の側が、一方的に破棄してしまうところがあるんじゃないかと思うんです。



それは日本人が、仕事を単に「機能的」なものとは見られない心性をもっているからでしょう。

仕事こそが、「自己実現」の場であると思い込んでしまうことになる。

それが大きなまちがいで、ただそう思い込まされることにより、雇用主から体よく利用されていただけだということは、リストラなどされた人は、気付き始めているかもしれません。

しかしいまだ、大多数の日本人は、仕事に自己実現を求め、朝から夜おそく、場合によっては未明まで、働くこととなっている。



それは高度経済成長の時代には、たしかに日本を奇跡のV字回復させるための原動力となったでしょう。

しかし今では、そのおなじことが、日本の足を引っぱっているように思える。



仕事に自己実現が持ちこまれると、仕事の都合より、「自分の都合」が優先される局面が、増えることになる。

仕事はあくまで、自己実現のための手段であり、「自分の利益」にかなうものでなくてはいけない。

仕事がそういうものになったとき、「腐敗」が始まるんだと思うんです。

仕事上での「責任」より、自分の利益が優先されることが、当然のことだと思われるようになる。



ですから今、日本人にとって必要なことは、

「仕事でなく、生活に、自己実現を求めていく」

ことだと思うんです。

それは単に、日本のトップにだけ要求されることではありません。

またシステムを替えれば、実現されることでもありません。

日本人の1人1人が、それに気付いて、自分の頭を、自分で切り替えないといけないことだと思うんですね。



もちろん僕は、自分がそんなことをなし得ると思っているわけではありません。

他人の頭など、誰も切り替えることはできない。

ただ自分の頭を切り替えることは、自分にならできるし、それが、

「こんなに楽しく、しかもとてつもなく広い世界が見えてくるものだ」

ということを、他人に伝えることはできると思うんですね。



日本は、変わらなくちゃいけない。

これまでの、堂々巡りのくり返しではなく、無限ループから抜け出して、新たな一歩を踏み出すことができなければいけない。

それはたしかに、僕自身もその通りだと思います。



でもそれを可能とするのは、坂本龍馬になり、「日本を変える」と叫ぶことではない。

またましてや、そんな龍馬もどきに、盲目的に付き従うことでもない。



僕がもしこれからの人生で、やっていきたいことがあるとしたら、生活のよろこびを、1人でも多くの人と、「わかちあう」ことなんだと思います。



* * * * *



昨日は「ラタトゥイユ」。



僕は高校のときに、アメリカに1か月間、ホームステイしたときに、ホストのお母さんがこのラタトゥイユをしょっちゅう作ってくれたものでした。

手軽に作れて、とてもうまく、栄養があり、しかも常備菜にもなるラタトゥイユは、夏場の家庭料理には、欠かせないものなのでしょう。

実際作ってみると、とても簡単、失敗する可能性も、ほとんどないと思います。



◎ ラタトゥイユの作り方

■ 材 料

・トマト 1個

・カットトマト缶 1缶

・玉ねぎ 中2分の1

・ナス 1本

・ズッキーニ 1本

ズッキーニがスーパーの売場に見当たらなかったため、今回はキュウリを使いましたが、まったく問題ありません。

・ピーマン 2個



昨日入れたのはこれだけですが、ほかに赤や黄のパブリカ、セロリなど、夏野菜はなんでも片っ端からいれてもいいようです。



・オリーブオイル 大さじ3

・ニンニク 1かけ

・ローリエ 1枚

・塩 小さじ1

塩の分量はこのくらいだと思いますが、これはあくまで、まず少なめに入れてみて、味を見てあとから足すようにします。

・コショウ 少々



■ 作り方

野菜は全て、2センチ角程度の大きさに切っておく。

炒める作業に余裕があるから、ある野菜を炒めるあいだに、次の野菜を切っていても問題ありません。



鍋にオリーブオイルをいれ、弱めの中火にかけ、たたき潰したニンニクを炒めて、ニンニクの風味を油につける。

ニンニクが色付いてきたら、ニンニクは捨て、まず玉ねぎを、じっくり5分くらい炒める。

それから、火が通りにくいものから入れ、2~3分炒め、次の野菜を入れ、というようにしていく。

まずナスとズッキーニ(キュウリ)。

2~3分炒めたら、ピーマン。



ピーマンを炒めたら、最後にトマト。

トマトに油がまわったら、カットトマト缶をいれ、ローリエ、塩コショウで味付けして、弱火で20分くらい煮る。

最後に味を見て、塩加減すれば出来あがり。



* * * * *



ラタトゥイユ。

何の手間もかからない、簡単な料理ですが、これはほんとにおいしいですね。

酒はもちろん、ワインならいいですが、料理に合わせて酒を変えるのが面倒な僕は、昨日も焼酎お湯割り。

でも焼酎でも、まったく悪いことはありません。



ツナと玉ねぎの玉子焼き。

ツナと玉ねぎをオリーブオイルで炒め、それを卵液にいれ、塩ほんの少量と混ぜて、オリーブオイルにニンニクで玉子焼きを作ります。

「すごくおいしい」というほどではありませんが、悪くはありません。



朝めしは、ラタトゥイユの冷製パスタ。

ラタトゥイユは、「冷たくなってからが本番」ともいえるわけで、これはおいしかったですよ。

パスタが見えなくなっていますが、ラタトゥイユの下に入っています。

パスタを冷たくして食べる場合は、ゆで時間を、袋に書いてある時間の「倍程度」にするようにします。